大学Times Vol.25(2017年7月発行)
日常の中の" 隙間" に光をあてるようなアートワークで、時代をとらえてきた日比野克彦氏。
後進育成のために母校である東京藝術大学に舞い戻ってからも、その自由闊達な発想は人材育成の場においても遺憾なく発揮され、今もなお時代をリードし続けている。
美術教育は学校の時間割りの中だけで、やるものとは限らないと思います。地域のワークショップで、ボランティアの人たちとコミュニケーションを交わすなどのことを含めると、美術離れが進んでいるとは、ひとことでは言い難い。美術の授業だけが、美術ではなくて、理科であれば昆虫の色や形状を観察する力も美を育てる上で重要な役割ですし、何かをイメージしたときにそれを言語で伝える国語の力もいるわけです。また、空間や図形を捉える算数の中にも美術の基礎はあります。図工室で工作することだけが、美術の時間という時代ではなくなっているのではないかと。"美"は、もともと日常の色んなところにあって、伝えたいとか、相手の気持ちをくみ取るとか、人間関係の中においても必ず美は存在します。
絵を描く、彫刻を造る、技術的なことばかりが美術ではなくて、人に伝えることが美術の本質。工作的な物が美術だ、という先入観を特に日本人は持ちがちですが、物は手段であって、本来の目的は伝えるということです。昔と違い現代はインターネットを通じて、個人発信が可能ですから、地球の人口70億人が70億通り、さまざまに発信できるようになるんですね。このことが、これからの社会の中の大きな構造になってくると思います。多様性、マイノリティという言葉が確立されている時代、美術は、「一人ひとりが違っても良い」と個性を認める価値感を与えてくれると思います。絵が描けないから美術が苦手ということではない、何かを見てキレイだと思う気持ちを伝えられることが、美術ではないでしょうか。
先述したように美術というのは、一人ひとりが違っていても良いんだ、という価値感を人々に与えることができます。その特性を活かして、2015年から東京都と私が一緒になって「TURN(ターン)」という、アーティストと福祉施設の利用者たちが交流するアートプロジェクトを展開しています。知的障害、身体障害、高齢者、セクシャルマイノリティとか不登校の子どもが集まるコミュニティにアーティストたちが一年間通って、造形教室などを開くのではなく、施設の中に溶け込みながら、だんだんと交流を深め、そのプロセスで生まれたコミュニケーションや気づきをインスピ レーションとした作品を発信するプログラムです。
人それぞれの行動や言動から、その人の個性を見出すことは、アーティストが得意とするところです。アーティストの"まなざし"を通して、色んなマイノリティの人たちの個性を見つめ、魅力やポテンシャルを引き出すために、詩を一緒につくってみようとか、写真を撮ったりしてきた時間と空間を美術館に持ち込んで、両者が共存した世界を発信しています。
作家がひとりで絵を描いてギャラリーで展覧会をすることだけが、美術表現ではなく、アーティストの能力を社会の中でどのように使っていくのかを考える。もともと大学は人材育成機関ですから、学年に一人天才が生まれればいいというような価値観ではなく、アートという特性を実社会で活かして、新たな職業さえも作っていく。「TURN(ターン)」がその先駆けになればと。いろいろな生きづらさを感じている人たちに「一人ひとりが違って良い」という美術ならではの考え方で社会とのつながりを作っていく、これからは、そうしたことをしていくべきかと思います。
学生の時に大学で課題が出るわけですが、その作品の講評会では、いかに自分らしく他者と異なる表現ができているかということが評価されるわけです。誰かと発想が似ているとか、表現方法が似ているのは美術としてはあまりよろしくないので、いかにして人と違うものを作ろうか、と考えたとき、美大生が画材屋で絵を描く道具を買うとなるとすでにその時点で材料が同じような物になる、他の人の作品と似てしまう可能性が高いな、と思ったんです。だから画材屋にはない材料という発想で、藝大のゴミ置き場にあった段ボールを使ったのが始まりです。日常の中にある微妙な違いとかが美術の特性。段ボールを使うのもそれと同じ感覚でした。特別な、なにかすごいテクニックというよりも"なんかわかるこの感じ"みたいな、ニュアンスやマテリアルを自分の中で使ってみたいという狙いがあったんですね。
大学は社会との接点を持つ場所であり、バーチャルなネットワークでは得られない身体があってこその人と人が接する教育の場です。リアルがいちばん大事で、そこから吸収するものは個々の能力になってくると思いますが、大学はさまざまなヒト・モノ・コトに出逢うチャンスを与えてくれる貴重な時間を提供してくれます。藝大は狭い大学なので彫刻科から石を叩く音が聞こえてきたり、建築科の学生が模型を作っていたりと自分の専攻以外の雰囲気が集まってきています。サークルに入れば学科を越えた交流も可能です。それが大学の一番良いところでしょうね。情報は 家でいくらでも集められるけれど、大学では自分の求めている以外のことが、いっぱいありますから。
さらにキャンパスの良い点は、人が人を育てるということ。学生が20代として先生が50代だとしても、30歳しか違わないんですね。美術史の中での30年は、ほぼ同世代。先生といえども美術史の中では、良い意味での競合相手です。ぼくは学生時代、デザイン科だったこともあり、先生たちのたくさんの作品を観たし、当然、それを参考にしてきましたが、鵜呑みにはしなかった。学生にもよく話をしていますが「話は聞けよ。でも話を聞いて使えるなと思ったものは覚えておく、自分に合わないと感じたらその話は忘れろ、捨てろ」と。
ぼくの先端美術表現科にはジャンルの異なる11人の教員がいるので、もちろん、学生の作品の講評に関しても意見はバラバラ。こっちの先生は良い、あっちの先生は悪いという。それを全部、鵜呑みにしていたら学生はもたなくなってしまう。だから、話の取捨選択をできる能力は大事なんです。答えのない世界をやっているわけですから。
福祉と芸術を掛け合わせた、文科省の履修証明プログラム「ダイバーシティー・オン・ザ・アーツプロジェクト」が、今年4月から東京藝術大学で進行中。『社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)』に寄与する人材を輩出するため、藝大生と社会人が学内の教室で肩を並べ、アートを媒体とした現代社会のコミュニケーションの在り方を探求している。
日比野克彦 美術学部長