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「大学ism」〜わが大学の誇り 東京藝術大学

日本の芸術の歴史を語るうえで避けて通れない、東京藝術大学。最高学府として多くの芸術家を輩出し、揺るぎない地位と信頼を築いてきた。明治の開学以来、一貫して次世代の職業人を育成してきた教育イズムを現代美術の保科豊巳教授に聞いた。

保科豊巳教授

日本の芸術の伝承のために藝大が担ってきたものとは

藝大の教育の原点は「日本の伝統の最先端技術」

東京藝術大学

―かつて、芸術は日本の重要な産業であった、と保科教授は語る。徳川慶喜が大政奉還を申し出た1867(慶応3)年にパリで開催された万国博覧会では、陶磁器、狩野派の屏風、浮世絵、蒔絵などが多数出品され、日本の芸術文化の高さを西洋に知らしめた。

「出品した工芸品は国益に直結するものであり、最先端技術だったんですね。それらをつくってきた技は室町、江戸時代と何代にもわたって伝えられてきた秘伝技術。ハイテクノロジーの秘密特許を持っていたようなものです。特許はどこにも盗まれないように文字で残さない。代々、身体で伝わってきたものです。それらをつくる人材を育成し、さらに西洋のすばらしさも取り込んだ美術学校をつくったのが明治政府。海外へ売り出していくには、政府の直轄機関がないと成立しなかったのです」。

明治20年、東京藝術大学の前身、東京美術学校・東京音楽学校が設立される。時は富国強兵、西洋列強に追いつけ追い越せの時代。事実上の初代校長、岡倉天心はそうした趨勢の中で、衰退していく日本文化を憂いていた。

「西洋化を意識的に明治政府が推進しようとしたんですね。それに対して神社仏閣の美しいものが、見捨てられていくわけです。江戸時代まで続いてきた自尊心をすべてズタズタにされていくのをみて、天心はこれはまずいんじゃないかと日本の技術は優れたところもあるんだから自信を持てと。自信をもって自分の国の文化芸術をきちんと伝承させるべきだという意見を持ったわけです。そこが藝大の教育の原点。後継者を育てようとしたわけですね。129年間、藝大はその根幹を踏襲し、新しい芸術にも挑戦してきたんです」。

当初の美術学校に設置された学科は日本画、工芸、建築、彫刻。その後に西洋画学科が加えられた。保科教授は美術学校時代を職人を育成するアカデミーと位置付け、藝大のルーツに深く関わる絵描き、建築家、石工などが集まった職人集団狩野派が基盤になっているという。狩野派は室町時代、安土桃山時代、江戸時代と存続しており、技術を切磋琢磨してきた。それを明治時代になり近代化させたのが美術学校であった。

藝大に入学するイコール“職”を身につけるということ

―芸術の世界では資質は認められるが、才能という線引きは難しく、ましてや、成功という定義はさらに曖昧である。芸術は"集団幻想"ではないかとの論旨も否定できない、と語る教授は教育者の立場からではなく、芸術家として強い言葉を放つ。 

「芸術は"言葉を越えて行く世界"であると私たちは信じています。自分たちのアイデンティティと自尊心に誇りを保っていけるような生き方ができる、そういうものを創りだしていける文化なんだと。それが芸術が存在する意味。愛に満ちたような美しい物をつくっているということが自尊心につながっているんです。そういう核心のもとで教育を行っています」。東京藝大に入学することイコール、その歴史からみても"職"を身に付けるということにつながる。そこが国内唯一の国立の美大最高学府に入学したという宿命的なことなのだろう。

「入学した時点で芸術家という職業に入っていくわけです。すでに"自分会社"をつくるようなものなんです。それで自分の会社をどうやって活かしていくかってことを自分のやり方で考えていく。就職というのはデザインとか産業系のところ。ファインアートという分野は身体ひとつ裸一貫でやっていく部分、つまり自分の能力そのものをどう使うかということ、どうやって開発して、どのように活用していくかってことが、その人の将来を決定していくことになるんです。ある意味、入学したら芸術家として踏ん切りをつけて入学してきてほしい。芸術家として生きていく覚悟を持ってほしい。すべての学生にそれを望むわけではありませんが、私はそう願っています」と、教授は話す。でも、個性は多様であってほしいともいう。掴みどころがなく規格外の"幽霊"みたいな存在の学生にも可能性を感じているようだ。

反骨精神が作品を誕生させる 大学を踏み台に成長を

―「自分ひとりだけの力で創造力を伸ばすことは決してできません。たとえば、私たちは母親から生まれてきている。それと同じように芸術家には芸術家の母なる場所があるんですね。そこで生まれて、突き放されていくわけですね。それがいつまでも抱っこされていたらダメになってしまうのです。だから、その母体と対立しなければならない。創るということは簡単ではない、対立することなんです」。教授はその対立軸として、あえて模写などの古い教育を取り入れ、学生たちを刺激している。「私たちは若者たちに芸術とは何かを伝えているわけです。つまり、次の世代をつくっているんです。私たちが理解できないような作品もつくってほしいという期待もあります。だから、私たちに反抗してもらいたいし、乗り越えていってもらいたい。私たち自身がそうやってきましたから。だからこそ、私たちも、それを正面から受けて立ちます。若者世代が私たちを乗り越えて、いまよりも価値の高い芸術作品を創造していってくれれば、藝大はまだ生きていけるんだろうと思います」と語りながらも、一線で活躍するアーティストとして、ジレンマも包み隠さずに話す。

「いつも思うんだけど、大学で私は先生ですよね、でも、芸術とは?大学とは?なんだろうなと、いつも考えるんですね。大学に疑問を感じることがあるんです。芸術は大学より上にあるものではないかと。芸術というのはすべてのものにつながっているわけですね。哲学や物理、宇宙というものに関連した、すべての要素を持っている分野。だから教えるってことが果たしていいのかどうか・・・教えるということは自分の知識を相手に分け与えるってことですよね。それがその人の創造性を阻んでいないだろうかと思うことがありますね。だから我々は教えるのではなくて、クリエイティブな環境を整えてあげることが大切なんですね」。この本音はクリエイティブ現場のリアルな声に違いなく、正解のない芸術の本質を物語っている。芸術を学ぶ学生たちに耳を傾けてもらいたいポイントでもある。

他国の芸術の違いを認め合うことは次世代への文化の継承、
視野を広げること

"均一化"は望まない芸術のグローバル化

―大学生たちのグローバル教育が盛んに叫ばれようになって久しいが、東京藝大ではこの潮流をどのように受け止めているのだろうか。

「いまのグローバル化は"平均化"という意味合いですよね。グローバルとは、もともと経済用語なんですね。ですから、芸術文化の中でグローバルという言葉を使うのはむずかしいと思います。芸術文化においてのグローバルはローカリティと同意だと思っています。世界、地域の文化の差異、違いをみとめることが芸術のグローバルだと思っています」と語り、教授自身の世界との付き合い方を次のように話してくれた。「以前、私は国際的に通用する作品をつくってきたと自負していたんですね。ある時ギリシャで展覧会をする機会があったんです。私の作品は和紙と墨と木を使うもので、そのときもそれらを使ってギリシャで作品をつくったんです。けれども、日本でつくったものとは違い、ギリシャで作品をつくると自分の作品とは思えなかった。同じものをつくったのに全然別物にみえたでんすよ。こんな作品をつくったおぼえはないのに、これはなんだと思って情けなくなったほどです。なぜだろうと思ってよくよく考えたら、まず湿度が違う。日本は湿気があるのにところがギリシャは乾燥している。風土が違う中で、自分の作品をつくっても存在感がないんですよ。それが外国で高い評価を得たんです。やはりぼくの作品というのは日本でしか在りえないのかなと。それを外国で知ったんですよ。自分は国際人だと思っていたのに、実はとんでもないローカル人だったんですね。でも、実はそのローカルでギリシャの人に認められました。外国に行くってことは自分を知ることなんですよね」と、教授は"均一化"ではなく、他国の芸術の違いを認め合うことが、次世代への文化継承、視野を広げることにもつながると話した。