大学Times Vol.9(2013年6月発行)
デジタル化した現代は新聞、テレビだけでなく、秒刻みで流れてくるニュースをキャッチし、さらにSNSにより瞬時にして世界と交信し、言葉を介在として様々な情報を得ることができる。しかし、これからの日本人は受信するだけでなく、世界に向けて発信することが重要であると多摩大学の樋口教授は説く。教授にその発信する“言葉の力”について伺った。
私が高校生の頃だから、かれこれ45年ほど前のことになる。当時の高校の先生には、戦争体験者が何人かいた。その一人、地学を担当していたI先生は壮絶な体験をなさった方だった。島の名前は忘れたが、激戦のあった南方の島に送られ、凄惨な戦闘ののちに部隊は壊滅し、飢えの中を逃げ延びた後、集団自決を図った。ところが、喉の下から撃った銃弾が鼻の上から抜けて生き延びた。アメリカ軍に助けられ、捕虜になって、戦後、日本に帰った。授業中、切れ切れにそんな体験を話してくれた。喉元と鼻の上の傷跡も見せられた。私は息をのんで話を聞いていた。
その先生が戦争体験記を書き、小冊子にして自費出版し、当時の生徒全員に配布した。さぞかし感動的な手記だろうと期待して読んだ。
ところが、少しもおもしろくなかった!おもしろくないどころか、壮絶なはずの戦争体験にまったくリアリティがなかった!先生は間違いなく凄まじい体験をしているはずなのに、それがまったく真実に思えない。空疎な絵空事に思える。むしろ、当時、雑誌などにあふれていた戦争体験のない作家の書いた空想の戦場の場面のほうがずっとリアリティがある。
その時、生意気な高校生だった私は言葉の力を強く意識させられた。言葉の使い方が上手でなければ、真実であっても真実として伝わらない。どんなに事実であっても、読む者はそこに疑いを持つ。逆に、たとえ嘘であっても、その文章にリアリティがあれば、人々はそれを真実だと思う。
言葉は真実を伝えるものとみなされている。だが、実はそうではない。言葉こそが真実を作り出している。
人が考えているだけでは、事実にならない。言葉として残されていれば、それは実際に思考されたとみなされる。現実として認定される。逆にいえば、言葉として発せられなかったものに関しては、存在しなかったに等しい。歴史的な出来事も同じことが言える。起こっただけでは、なかったに等しい。言葉にされてこそ、真実として人に伝わる。文字として残されてこそ、事実として後世に伝わる。
小さな子どもに、「おまえはできない子だ」に言い続けていたら、きっとその子は「できない子」になるだろう。「おまえはできない子だ」という言葉が、現実になっていく。
このような言葉の力を、多くの人が十分に認識していないのではないか。言葉の力を見くびり、言葉を安易に使っている人がなんと多いことか。
言葉の暴力で人を傷つけることもできる。自殺に追いやることもできる。言葉の力で傷ついた人を慰め、生きがいを与えることもできる。言葉によって人を説得することも、信頼してもらうこともできる。逆に、言葉によって、人の信頼を失い、人格や能力を疑われることにもなる。言葉によって人間関係を円滑にもできれば、ぎくしゃくしたものにもできる。それを多くの人が認識する必要がある。
今は発信の時代といってよいだろう。これまで、日本人は受信を得意としてきた。他国の文化を取り入れ、おとなしく他人の意見を聞き、自分の考えを言葉にするのをぶしつけだと考えてきた。だが、時代は変わった。今では、いくら大量に受信しても、他者にわかってもらわなければ意味がない。自ら発信し、言葉で表現し、相手の考えを理解したうえで自分の考えを示し、問題を解決していかなければならない。レポートを書き、会議で発言し、プレゼンを行う必要がある。そうしてこそ、仕事を与えられ、評価される。それがないと、仕事もなく、評価もされない。
そんな時代であるからこそ、日本人はだれもが言葉の力をしっかりと認識する必要がある。日本人が発信力を持ち、言葉の力を認識することによって、日本は大きく変わることができるだろう。日本文化をもっと世界に発信できるだろう。それは、世界の文化をもっと豊かにすることにもつながるに違いない。
受信重視から発信重視に変わる
これからは発信の時代になる。これまでのように物事を理解するだけでは有能とみなされない。自分で考え、意見を発信し、他者と意見交換し、他者を説得できなければならない。これからの日本の教育は発信重視になるだろう。日本は自分たちの文化を世界に発信するだろう。他人に依存し、他人に任せる日本人の精神そのものが変わるだろう。
樋口裕一 略歴
1951年、大分生まれ。現・多摩大学経営情報学部教授。
通信添削による小学生から社会人までの作文・小論文の専門塾「白藍塾」塾長。
『頭がいい人、悪い人の話し方』(PHP新書)等著書多数